喪のプロセスの成功と失敗、仏教葬儀の優れた設計思想

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 今日は知人のOさんにお話を伺った。

Oさんは現在大手広告代理店でバリバリの営業マンとして働くナイスミドルなのだけど、実家が寺という出自で、留年していた大学5年生の頃に2ヶ月間比叡山にこもってお坊さんの資格を習得していたらしい。

Oさんとは基本的にアート系のイベントや野外フェスなどでよくバッタリ遭遇して乾杯するという仲で、愉快でファンキーで気のいい兄貴というイメージだったが、今年のフジロックの苗場食堂でみんなで飲んでた時に実はお坊さん業務をやってたことを知った。彼の普段の愉快で俗世をバリバリ楽しんでるようなイメージからかけ離れているため、めちゃくちゃビックリしたのを覚えている。

現在死や弔いをテーマにした作品を作っているため、一度お話を聞いておかねば!と思い、お話を伺わせてもらった。

以下、お話の内容の要旨をメモ。


住職としての仕事

ーーOさんはかなり変わった出自ですよね。どういった経緯で今のポジションに落ち着いたのでしょうか。

僕は家が寺という出自ゆえ「人が死んだ時に何をやるか」に触れる機会は多かった。
大学5年の頃、留年していたので比叡山にいって坊さんの資格をとった。2ヶ月間みっちりとトレーニング。座学で教科書ベースでの講義もあるし、体を使った修行もあった。
入門の勉強をしたまま、それ以降はそれを本業とせずサラリーマンになったため、現在は普通の人と坊さんの間のようなポジション。
しかも、あろうことか就職したのは広告代理店。人の煩悩をかきたてるのが職業の本質のようなもの。
しかし「どういうときに人間が煩悩を持つのか」を考える、という意味では広告の仕事も住職の仕事も通底しているかもしれない。

 

仏教葬儀の持つ多面的な機能

ーー事前アンケートで、かなり達観した死生観を持たれているなと感じました。Oさんは仏教葬儀をどのように捉えているのでしょうか?

葬式が持つ機能には様々なレイヤーがある。
人が死ぬと、まずお通夜があり、葬儀があり、初七日というものを迎える。これは七日ごとに違う仏さんに対する法事をしているという意味。
その間に、集まった人たちは亡くなった人を悼む会話をし、遺産処理の話をし、誰に連絡をすべきか洗い出す。これらを親族一同が集合している時にまとめて処理できるのは、事務的な面でも合理的である。
しかし一番大事なのは「この人がいない」ということをみんなで確認すること。
遺影、墓碑銘どうする、とか、次の法事にどうするか、とか。そういう事務的な手続きをする中で、その人の「死」や「不在」を否が応でも現実の出来事として認識せざるを得なくなる。通夜葬儀の間はイベント対応しないといけなくてめちゃくちゃ忙しい。
これがとっても合理的。

葬儀関連のイベントは最初ほど密度が高く設計されている。特に最初の一年はめちゃくちゃ多い。
通夜があり、葬儀があり、初七日を迎え、三十五日、四十九日・・・(四十九日まで魂がこの世にとどまれる、といういわれである)
また、最初のお彼岸、初盆なんかもあるから、そうこうやっている間にあっという間に一周忌を迎える。
その後は命日ごとに追悼をする。一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、三十三回忌(ただ、三十三回忌のあたりで代替わりしてしまうのが通例。弔っていた側が弔われる側になってしまう。)
ちなみに五十回忌っていうのもあるけれど、それは地域の名士とかじゃないとやらないはず。 


これらのイベントは、その人に関係する人が集まって、この人がなくなりましたね、こんな人でしたね、こんな関係がありましたね、と偲ぶことで血縁、コミュニティの関係性を確認するという側面もある。
亡くなった人を中心とするコミュニティマップのようなものを人が集まることで可視化する。コミュニティにその人がいたこと、そして現在いないことを再確認する。お通夜というものは、その人がいなくなったことを「確認」するイベントなのだ。
「親しい人がいなくなった」と思うと悲しいけれど、その事実をしっかりと自分の中で確定させないと、いないことを思い出すたびに落ち込んだり悲しんじゃったりしちゃうから。

この「確認」が失敗した事例も周囲で起こった。自殺した息子の死を認められず、いつまでも息子が生きているかのように振る舞ってしまう母親。仏壇もなく、彼が生きていた部屋も生前のそのまんまに残している。

息子の死を認めたくない気持ちはわかる。しかし喪に服するプロセスが進んでいない、死を認めていないというのは不健康。いっとき慰みを受けるのはいいけれど、それではきっと本当には幸せになれない。そうやって構築された故人との繋がりには、うそ寒さを覚える。家庭の失敗のひとつである。
喪のプロセスをきちんと行い、その人の死を現実として受け入れないと不幸になる、という一例。


仏教は生きるためのガイドラインのひとつ

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ーー仏教は死を中心とした宗教だと思っていたのですが、実際のところどうなんでしょう?


仏教は死をメインにした教えというよりは、死を生きていることの一部として受け入れろ、という意味合いが強い。決して楽なことではないが、等しく誰にでも訪れるものとして受け入れること。
「極楽か地獄か」みたいな二択は、仏教というよりは民間伝承的なものの影響が色濃いと思う。

余談だが、死んだあとに地獄があるという考えは世界各地の宗教で見られる考え方。
そして面白いのが、極楽のイメージは薄いが、地獄のイメージは非常にリッチだということ。痛いことに対しては、人間は想像力が豊かに働くものなのかもしれない。
極楽浄土のイメージなんて、せいぜい宝石金銀敷き詰められていて、平等院鳳凰堂があって、花鳥風月があって、みたいな、「そんなもんかよww」みたいな描写しかない。

「死んだあとに何が起こるか」は考えるな、という価値観ではある。基本的には。
仏教は死んだあとどうするか、を重要視しているわけではない。
あくまで生きているときのガイドライン

 

宗教の存在理由とは

ーー宗教はなんのためにあると思いますか?
宗教は、日常生活をより良いものとして過ごしていくための生活のガイドラインだと思う。
自分で何でも自分の人生を作り上げられる、コントロールできると思うと、逆に全ての失敗の責任が自分にやってくる。これはしんどい。
そうじゃなくて、がんばっても報われないことはある、人の営み以外にもこの世にはいろんな要因があり、人の力の及ばない世界があり、そういうものと自分たちの住む世界は混然一体、と考えると心に逃げ場ができる。
人間を超えた、科学的な因果律じゃ説明できない存在を受け入れるための、目に見える存在以外のものを受け入れるための考え方が宗教だと思う。

人間が生きるために、科学と技術でやっていけるかといえば、きっとそうではない。
産業革命が起こってから170年ぐらいはサイエンス&テクノロジーの時代だけど、
かつては農作業の習慣や、それに紐付いた信仰のほうがより強く人間を規定していた。

この世のあらゆる事象は、科学的な論理や、因果律だけで最終的に説明できるのかもしれないけれど
現実を最終的にデータで完全にモデル化できるとしても、思ったようにいかないことだって多々あるはず。
機械が考える、感情を持つ、みたいな日だってやってくるかもしれないが
そうなった時に、ロジックの集積だけで世界や人間って完全に再現できるか、というのは僕は疑わしいと思う。
宗教的な価値観や倫理は、単なる論理モデルとしての人間のアイデンティティじゃなく、もう一つ別の力学を持った世界にアクセスすることを助けてくれる。論理を超越したところに価値をおくことが、人間が生きることを楽にしてくれる。
科学、論理、意思・・・そういうものだけじゃなくて、この世にはそれ以外にも蠢いている何者かがある。それとの兼ね合いをつけるために、宗教は必要だと思う。

 

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以上、前半戦でした。内容が濃いので、前後半に分けようと思います。

喪のプロセスに失敗すると、人は精神的に壊れたり執着したりしてしまうから、死者の弔いをすることは遺された人に対する合理的な処置としても機能している、ということがよく分かった。むしろ遺族側に対してのメリットが大きいかもしれない。

私は死者の痕跡を残す作品を作ろうとしていたが、死者のアイデンティティをずっと残しておくことは、きっとあまり健康なことではないのだろうな。

不在を不在として受け入れなければ、その後の人生がおかしくなってしまう。最終的には不在をきちんと受け入れること、自分の心のためにも適切な弔いのプロセスはきちんと実施させること、は心得ながら作った方が良さそう。

 

おまけ:ロボシャーマン試作

デジタルシャーマン・プロジェクトという作品の試作品として、ソフトバンクの家庭用ロボット、Pepperに自分の顔や人格を憑依させてみるテストをした。

えぐい。でも何かしらの有機的なナマっぽさが出て、個人的にすごくやばくなりそうな気がしている。進行がんばります。

Digital Sharman Project Prototype1 from Etsuko Ichihara on Vimeo.

 

追記:後編も書きました!

etsukoichihara.hatenablog.com