喪のプロセスの成功と失敗、仏教葬儀の優れた設計思想(2)

etsukoichihara.hatenablog.com

前回の記事の続きです。

大手広告代理店で働きながらも、僧侶としての顔も持っているOさんに、日本の葬送について様々な観点からお話を伺った際の記録です。

死を受け入れる手がかりとしての遺体

「日常的に死を意識したことはありますか?」という問いに対して。



仕事や恋愛のあれこれが原因で自分の存在を続けるのつらくなったとき、死を意識することはあった。
普段は遠くに見える、生死の臨界点が、自分が弱った時には見えるところに近づいている感じがあった。

あとは御巣鷹山JALの旅客機が墜落し、多くの乗客が亡くなる事件があったのだが、
岩波書店の「世界」という雑誌でその事件についての記事が出ていたのが印象に残っている。「喪の過程」っていうタイトルで。
死を予感していない人が旅客機事故で一夜にして大量にいなくなる。その際に遺族が、いかに死を受け入れがたく、死を受け入れるのに苦労するか、ということを追いかけたドキュメンタリー。

決定的なのは、爆発的な事故で、遺体が見つからないということだった。
死亡者名簿に登記されているし、死んでるはずなんだけど、それでも諦めきれない。
なんかの間違いで名簿に載ってしまったんじゃないか、と考えて、必要以上に遺体を探してしまう。
旅客機が山奥に落ちて、それを捜索隊が探して収容して、事故現場からいちばん近隣の町の中学校の体育館に遺体をどんどん置く。
ひどい事故で、総じて五体満足の遺体がいない。ほとんどがばらばらになっている。
しかも夏場で腐敗臭が出るため、ドライアイスでどうにかしのぐ。町中異臭が漂っているのだけど、しかしそれを簡単には片付けることができない。
なぜなら、その部分と化した遺体の中に「自分の家族の部分を見つけられるのでは」と思い、そこをさまよい続ける遺族が後をたたないから。
実際、他人の胴体の中から、ぜんぜん関係ない人の頭部が、めりこんで発見されたりする。
歯医者の治療の記録で奥歯の歯型を照合したりしながら、遺体を特定する作業が続いた。

このドキュメンタリーは、人が死んだら死を受け入れないと、現実の生活がつらくなる、という自分の仮説をすごくよく補強した。
死んだあとに確認するのはつらいけど、やはり確認したい。
ひたすらに亡くなった両親、息子、夫、のからだを探し続ける。探したらそれを手がかりに死を受け入れられるから。
「探したらあるかも、もしかしたら死んでいないのかも、生きているのかも……」と希望を捨てられない状況に、人は耐えられない。だから、とどめをさしたいと思うのだろう。それを明確に意識しているかはわからないけれど。


喪の過程という原稿を書いていた人は、遺族が、自分の代えがたい存在の死を現実として受け入れるための手がかりとして、遺体を求めていた、というスタンスで書いていた。
遺体を探すプロセスだけではなく、そのあとどういうふうに葬儀をしたか、という話もあったが、基本的には、遺体を執拗に探す遺族の姿が描かれていた。
火葬もそうだが、その人の身体が完全になくなる過程を確認する、みんなで共有する、というプロセスは重要なのだろう。

時代のエリートが洗練させてきた、葬送のシステム

一般的な仏教にのっとった葬送の仕組みは非常によくできている。
通夜があって葬儀があります、という風に広く告知を出すことによって何が避けられるか。
家族葬だからいいや、ってお知らせも出さないでいると、
後から「死んじゃったんですか!?」って親しかった友人たちが家に来ちゃう。線香あげさせろって。簡単な話だけど「亡くなったことを知らなくて、驚きました」「手を合わさせてください」と週末ごとにピンポン、ピンポン、、とチャイムを鳴らす来客が来ることになる。これがいつになっても終わらない。一斉にやってないから。これでは遺族も気が休まらない。
だから社会的な手続きとして、通夜があり、葬儀があり、初七日があり、四十九日があって、彼岸があって、盆があって一周忌があって、三回忌があって、という風にやっていくのはすごく合理的。
最初の一年で、死んだってことを社会的に認知させることが大事。親族にとってもだし、仕事で縁があった人に対して、最初の一年でイベントを徹底して告知して人を集めていくほうが、効率がいい。ここで効率がって言葉が出るのもおかしいけどw

仏教思想の葬儀というのは、長い時間をかけられているのと、サイエンスより宗教的な論理がメインストリームだった時代にその時代エリートが集まって組み上げたシステムだから、やはりよく出来ている。時間の流れに鍛えられて、非常に意味のある手続きになっている。今普通にサラリーマンとしてやっていると、まーわかんないし、接触もしないけど。
最近はお葬式やるときに遺族と寺、という関係だけじゃなくて、葬儀屋という母体が入り込み始めたのだけど、葬儀屋が逆にそのルールをぶっ壊しているふしはある。
金儲けのために色んなもんくっつけてくるから。披露宴で、もともとなかったサービスをのっけることで客単価あげるのと一緒。あれと同じ仕組みで葬儀の単価をあげている。本来なら信仰とか宗教に関係ないものまで盛り込まれている。
仏間のような空間は、極楽浄土を再現するというコンセプトで非常に華美になっている。仏教的な倫理と価値観を空間で表現しているから。
で、本当はわざわざ葬儀屋側で舞台装置を変える必要ないんだけど、わざわざプラスチックのししおどしなんかを持ってきたりする。宗教としての必然性じゃなく、葬儀屋が儲かるためのオプションとして。
もちろんみんながみんながそうじゃないけど、葬儀屋と寺は実はあんまり関係ない。
おんなじ現場で仕事はするが、寺が葬儀屋に発注することは基本的にない。あくまで喪主が葬儀屋に発注する。位牌をふたつください、みたいなのはあるけど。喪主との関係で儲けを大きくしようと思って、舞台装置を大きくするシステムになっている。
かつては檀家さんとの間で葬儀の妥当な料金体系を決める、中間的な組織を持っていて、そこと合議で料金体系きめるようになっていたのだけど。

あと、かつては葬儀を寺で完全に執り行っていたから、戸籍の管理は寺がやっていた。葬儀をする際に、こういう家系で、というのを寺が一通り整理するから、戸籍管理の機能を寺が持っていた。
地縁の関係で家と寺が結びつき、お墓が寺の墓地を持っていて、そこ墓に入る家系の葬儀を代々その寺がやっている、みたいな関係があった。
しかし高度経済成長でそういった関係が薄くなり、檀家と寺の関係が見えにくくなる。
それを2代3代と続け、サラリーマンが都市のマンションに住んで、ってなると、あれ、死んだら誰に拝んでもらえばいいんだっけ?という風になる。

ファスト風土における葬儀の簡略化、それに耐えられない人間の弱さ

こういう風に喪のプロセスが機能せず、勝手な形で人を弔って終わりにすることが最近増えていっている。葬儀屋に電話して安く済ませようとすればいくらでも安くできる。寺に所属しないフリーランスのお坊さんを派遣してもらえるし、葬儀の舞台装置は葬儀屋が整えてくれる。
一番安いセットだと、お墓も作らないで、共同で遺骨を入れる場所に、全然関係ない他人の骨や他人のペットの骨なんかと一緒に収納されたりしてしまう。
しかし、そうやって自分の親を弔うと、自分が年老いて自らの死をイメージした時、自分の子供に同じように弔われるのじゃないか、という恐怖感がその人をだんだん蝕んでいく。
ちなみに、千葉ではそれに端を発した精神病理が東京より多そうと聞いたことがある。
世間に対してアナウンスし、葬儀を行うことには確かなベネフィットがある。大事な誰かが亡くなったという痛みを現実に定着させることが、自分が年老いて、死に近づいてきた時の安寧になる。老いて、社会的な存在感がシュリンクしていった時の、心の支えになる。
直近で安くすむしー、と、金銭的な理由だけで済ませてしまったり、経済的/教養的に水準が低い選択をとってしまうと、それが後からその人を苦しめることがある。それが起こりやすいのが千葉なのかもしれない。都心じゃなくてやや郊外、いわゆるファスト風土的な、しまむらとイオンがあって、みたいな。教育水準が低く、亡くなった方に対して敬意をもって弔うということの意味がわからない家庭が多いということか。

手続きを踏んで弔うことの意味、それは事務的にも倫理的にも情緒的にもいろんな価値や意味がある。
しかしそれを経験していなかったり考えなかったりすると、自分の肉親を手厚く弔ったことにより救われた、みたいな体験を経験できない。
なんでこんな金と手間がかかるんだという風に思うかもしれない。
ただ、自分は樹海で野垂れ死にして鳥が啄むにまかせてもいい、と割り切れるのならいいけど
自分も他人のペットと一緒に3万円で埋められるかもしれない、ということに耐えられるほど、人間は強くないと思う。

死や弔いを問うこと

最後に、今作っている作品についてアドバイスを頂いた。


今の人は人が死んだとき、弔うことを考えない。金銭的なところだけ合理化して、後で心が収まらない、ということが増えていっている。典型的な不幸な事例である。
人が死んで弔うってのはどういうことか、という意味を問わなくなっている。
今あなたが作っている作品は一見グロテスクだが、その意味を考えるきっかけになるのならいいのでは。
「死者を弔うことは情緒的にも、社会的にも経済的にも意味があり、それをわきまえてやるべきだ!」と真正面から主張するのは説教臭いけどw、作品としてやると説教臭くならないし。
表現そのものはグロくても異物感があってもかまわなくて、
人が死んで、それを弔っていくことの意味を問えるのであれば、それは意義深いのではと思う。